風が心地よかった。静かに目を閉じて、エリシャはこの家の女主人のことを思っていた。あたえられた部屋はいこごちよく、食事はおいしかった。
いつしか、これが当たり前のようになって、彼はふと気づいたのだ。何か、お礼をしなければ・・
彼は目を開け振り向いて、ゲハジに言った。
奥様を呼んで来てくれないか。
しばらくすると、彼女が部屋の入り口に姿を見せた。
その足元には猫がいて、自慢の尻尾をピーンと立て、エリシャの膝に飛び乗った。
エリシャはゲハジを通して、今までの感謝の言葉を伝え、
何かお役に立ちたいのだが、必要な物はありますか?
と女に尋ねさせた。
彼女はきょとんとした顔で、エリシャとゲハジを眺めて、それから慌てて言った。
まあ、お礼だなんて。。。とんでもございませんわ。
聖なるお方に、この部屋をお使いいただけることが嬉しいのです。
主人は優しいし、生活も祝福され、ご近所の皆様とも平和に暮らしております。私は今のままで、十分満足しておりますの。
彼女は満ち足りた笑顔をエリシャに注ぎながら答えた。
ミャ〜
猫が彼女をジッと見上げて鳴いた。
ええ!エリシャさんて、
そんなに高貴なお方だったん?
そりゃあ、エリヤ様の後を継がれて、今や預言者の総元締め。聖なるしとだから、女の人とは直接言葉を交わさなかったのかしら?
それとも、おねだり事を直接聞いては、相手が答えにくいと思ったのかなぁ・・
ええ! そうなのぉ?
もう何度もご厄介になっていて、気心も知れて、遠慮なんか・・
親しき仲にも礼儀あり。
そうなのぉぉ? どうなのぉぉ?
とひよこは色々考える。
彼女は思わず足元の猫を両手で抱えると、足早にその部屋から外に出た。
猫がしきりに鳴いた。
まあ、ギザギザ耳の白ちゃん、どうしたの?
そんな悲しそうな声を出して・・
お腹がすいたのでちゅかぁ?
ママがお食事を用意しまちゅから、
そんなに鳴かないのよぉ・・
白ちゃんが、窮屈そうに体をねじって、するりと彼女の腕の中から抜け出した。彼女の足が止まり、空しくなった手のひらを握り締めた。
そうよ、何もかもが順調で、何もかも満たされているわ。
そう、しいて言えば・・・
白ちゃん、あなたがもう少し
私の腕の中で甘えてくれさえしたら・・
彼女が、誰にも見せたことの無い寂しい表情を片えくぼに残して、階段を降りきった時には、女主人のいつもの顔に戻っていた。
ゲハジ、どうしたものかね。
あぁ、女主人のことですか。
そうですねぇ・・・
そういえば、この家には子供がいません。女主人はさっきの猫を「ギザギザ耳の白ちゃん」とか言って、猫をわが子のように可愛がっていますが。
そうか!
それは迂闊だった。すまないが、もう一度、彼女を呼んできてくれ。
エリシャは、椅子から立ち上がって、しばらく部屋の中を歩き回った。
ゲハジと彼女が部屋にやってくると、その歩みを止めて、再び椅子に腰掛け、にこやかに彼女を招き入れた。
あれから一年が過ぎた。
先生、見てください。あなた様のお言葉どうりに、私は子供を抱いておりますわ。元気な男の子ですのよ。
彼女は嬉しそうに、幼子をエリシャに見せた。その子が、エリシャの豊かな髭に触ろうと、かわいらしい手を伸ばす姿が愛らしかった。彼女はそんな幼子に目を細めた。
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一年前のことだった。
あの日のあの時、思いがけないエリシャの言葉に、悲鳴のような言葉を両手で押し止めて、息を飲んだのだのは。
頭がくらくらした。聞き間違い?喉が渇いて、言葉が出なかった。
そんな私を、このお方はにこやかに見つめ、もう一度ゆっくりと言ったものだった。
あなたはその腕に、自分の子供を抱きますよ。かわいい男の子をね。
私が・・? 来年・・・?あかちゃんを・・?!
あの時、両手で頬を覆いながら、エリシャの足元を凝視したのは、突き上げてくる喜びと、恥ずかしさに、耳先まで真っ赤に染まった顔を見せたくなかったから。
そして、慌てて打ち消したのは、何度も夢破られてきた望みだったから。涙の谷で諦めを学んだから。
それなのに、このお方はおっしゃった。
まあ、先生ともあろうお方が、こんなはした女をおからかいになるのですか?
少しゆがんだ顔で言う私を、 ( ̄∇ ̄;)
このお方はただ微笑んで、
その日のうちに慌しく、
カルメル山へと旅立って行った。
それから、ピタリと彼らの姿が途絶えたとき、やっぱり、たわごとを言ってからかって、決まり悪くなったんだと納得した。
それなのに、不思議!
この体が丸みを帯びて、
新しい命を授かって、
月満ちてその産声を聞いたとき、
夫婦共々言葉を失って、
それから喜びの涙に濡れたのだった。
みゃ〜〜!
足元で子猫が鳴いた。
ギザギザ耳の白ちゃんもパパになっていた。
子供が笑った。
エリシャの髭に手が届いたのだ。(ノ⌒∇)ノ