エリシャはサマリヤからダマスコヘと移動していた。
彼がダマスコに着くと、すぐスリヤの王様の耳にも入った。といっても彼は今、病床にあって、身動きが取れません。死者をも生き返らせるという神の人の到来に、将来に不安をいだいていた王の心は飛びつきました。
わしの明日はあるのか?
心の中で自問し続けていたことを確かめようと、王は忠実な家来ハザエルを、エリシャのもとへとつかわすことにしました。
ハザエルは40頭ものらくだに、溢れるほどの贈り物を乗せて、エリシャのもとを訪れたので、町の人たちは大騒ぎです。
そんな騒ぎを横目に、ハザエルはエリシャの泊まっている家の戸を叩きました。
彼は道すがら、王様の喜ばれる言葉をいただけるようにと祈り続けていたのです。
ハザエルは慎み深くぬかずいて言いました。
神の人よ、
あなたの子、スリヤの王ベネハダデが「私の病は治るのかどうか」お伺いを立ててほしい、と申しております。
必ず直るとお伝えください。
エリシャがこともなげに言ったので、ハザエルは喜びつつも、拍子抜けして、ほかに言葉はないものかと、エリシャを見つめた。
すると、エリシャの目がきらりと光って、彼の瞳を吸い寄せるように捕らえると、そこから離れようとしなかった。
ハザエルは戸惑って、視線をはずそうともがいた。が、
不思議なことに彼がもがけばもがくほど、その眼差しは彼の心の奥深くへと注がれて、ハザエルは気まずさを覚えて赤面した。
突然、エリシャの瞳から、ゆらりと涙が揺れた。その揺らぎが膨らんで、頬に刻まれた深いしわの中に、ゆるゆると吸い込まれてゆくのを見たハザエルは、呪縛から解かれた心地で、体のこわばりが緩んだ。
神の人よ、どうなされたのですか?
エリシャは椅子からふらりと立ち上がって、操り人形のようにぎこちなく部屋の中を歩きまわり、またガタリと椅子に身をゆだねた。
彼は両手を前に突き出すようにして言った。
見えるのだよ。あなたがイスラエルの民にしようとしていることが・・
ああ、、、
我らの城に火を放ち、若者も幼子も、妊婦さえも剣の犠牲にするさまが・・・
ええ!なんとゆうことを・・・
私は虫をも殺せない男ですよ。ただ、王様にお仕えする犬のような者です。
ハザエルは目をむき出して言ったが、それを打ち消すように、エリシャの言葉が重なっった。その言葉がハザエルの心臓を射抜いた!
あなたはスリヤの王となります。
ギョギョギョ!!
ジェジェジェ!!
あっひゃ!!
驚いたのはひよこです。
ハザエルさんだって、そうでしょう。
言葉が出てこなかった。
エリシャが別室に去ってしまうまで、
彼は動かなかった。いや、動けなかった。
40頭のらくだを引いて王のもとへと戻る道すがらも、言葉を忘れた者のように、引き結んだ唇は動かなかった。
エリシャに覗かれた心、
それが、むき出しにされて、
今、彼の面前で揺れていた。
ああそうだ、
私は王の犬だ。
自分の意思を持つこともなく、王の言うがまま動いていた。自分でも気づかずに、いや、気づかないふりを装って、尻尾を振っては擦り寄って、ご機嫌をとっていた。
私は犬だ!!
王の犬だ!!
それでいいではないか!!
彼の心は爆発しそうだった。
わぁはははぁ!!
はぁはぁはぁ!!
閉じた唇を突き破るようにして、
突然、笑い出した。
涙が飛んだ。
らくだを引く従者やら何やらが、驚いたように彼を見つめたが、ハザエルの目には何も映らなかった。
彼らは、エリシャからの答えが、希望のあるものだったために、ハザエルが喜んでいるように映った。
実際ハザエルは喜んでいた。
よかった!王様の病は癒される。命に別状は無い。
彼は、気を取り直すと、ラクダの足を急がせた。
ベネハダデ王は、せわしなげに歩く特徴のある足音を、ベットの上で聞いて目を開けた。
するとちょうど、部屋の入り口で深々と頭を下げるハザエルがいた。王の忠実な僕は身をかがめて王のそばに近づいた。
「王様の病は必ず治ります。」
神の人はハッキリと私に言いました。
ベネハダデ王はそれを聞くと、安心したのか、ふたたび目を閉じると、そのまま、かすかな寝息を立てはじめた。
闇が深まった。
星も月も雲に覆われ、
草木も眠りについたかのように静まり返っている。
しかしここに、眠れない男がいた。
どくどくと心臓が動く。その音がうるさい。
眉間に膨らんだ静脈。濁った血が運ばれてゆく。
細胞がぱちぱちとはじけている。
「あなたはスリヤの王となるでしょう。」
神の人の言葉が耳から入って、彼の心臓をばくばくと動かしている。
清められた真っ赤な血潮が造られて行く。
私はスリヤの王となるのか?
どぐどぐと激しさを増して動く心臓に、突き動かされるようにして送り出される鮮血。
王だ! 王だ!
新しい細胞が叫んでいる。瞼の奥が真っ赤に燃えている。
私が王だ!
そうだ、私だ!
一睡も出来ないまま、ハザエルは立ち上がった。
脱ぎ捨てた夜衣がずり落ちた。
それを目の端に止めたとき、
彼の心臓は激しく痛んだ。
突き上げてくる痛みを足元に集めて、
ギリギリと夜衣を踏みつけて、
彼は自分の部屋を後にした。
;;;;
その彼の手には、濡れた布があった。
それは今しがた、ベネハダデ王の鼻と口を塞いだもので、その手の中でぶるぶると震えていた。
王の寝室のカーテンの隙間から朝日がさしこんだ。光は、浮遊物を浮き上がらせ、その布を手にしている者に注がれた。
新しい王が誕生したのだ。