ホシャイはあたりを気にしながら、祭司ザドクとアビヤタルのもとに急いだ。自分の意見が通ったとはいえ、自分にも見張りがついているかもしれないからだ。
「今夜、川を渡りなさい。さもないと危害が及ぶかもしれません。ダビデ様に伝えてくれ」
そう告げると、二人は信頼のおける召使の女に伝言を託した。女はすぐに、エンロゲルに待機中のヨナタンとアヒマアズに伝えた。それで二人が道を急いでいると、間の悪いことに、その挙動の不信さもあって、人に見つかり、アブサロムに知られてしまった。そして二人は後をつけられた。
しばらくして、尾行者に気づいた二人は目配せし、途中の知り合いの家に逃げこんだ。そして庭にあった井戸の中に潜り込んだ。阿吽の呼吸で井戸の上には蓋がかけられ、布がかぶせられ、麦を干しているように見せかけられた。危機一髪だった。わらわらとアブサロムの兵が庭に駆けこんできた。
「おい女。今男が二人ここに来ただろう。どこに隠した」
「隠しただなんて、人聞きの悪い。あの二人は庭を突っ切って、裏の小川を渡ってゆきましたよ。麦を干そうと運んでいた私を押しのけたものだから、大切な麦がち散らばっちまいましたよ。忌ま忌ましいったらありゃあしませんよ。こんな所でぐずぐずしてないで、早く捕まえてくださいな」
女はぷんぷんに怒ったふりをして、裏口を指さした。
こうして女の機転で、ヨナタンとアヒマアズは大事な勤めを果たす事ができた。ダビデ一行は、そのその日のうちに、夜陰に紛れてヨルダン川を渡った。
アブサロムが、にわか仕立ての軍隊を率いて、ヨルダン川を渡ったのは、それからずっと後だった。軍隊長はヨアブのまた従兄弟のアマサ。アブサロムはギレアデに陣を敷いた。
ダビデがマハナイムに着くと、そこの豪族三人が沢山の贈り物を携えて出迎えた。その中の一人は、ヨナタンの子メピボセテを庇護した豪族のマキルもいました。
こうしてダビデは、彼らの助けを借りて一息つくと、自軍を三つにわけ、ヨアブと、アビシャイと、ガテ人イッタイにまかせた。
当然ダビデも一緒に行くつもりでしたが、みんなの強い反対にあいました。相手の狙いは「ダビデの命」と分かっていたからです。それでダビデは門の前で兵士たちを見送ることにし、三人の隊長に言いました。
「アブサロムを殺すな」
そのことは兵隊たちも聞こえました。
さあ、戦だ。場所はエフライムの森。
寄せ集めのアブサロム軍は、慣れない森での戦で、その日のうちに2万人以上が倒れました。
これはアブサロムにも想定外。
あわてて退却しているところを、ヨアブの兵士に見つかってしまいました。ラバに乗った彼は(*1)急いで森の奥へ逃げようと、その尻を思いっきり叩きました。ラバは驚きあわてて闇雲に突っ走ったので、アブサロムは低くたれていた大木の枝を避けきれず、自慢の髪を引かけたまま、ラバは走り去り、何と彼は宙ぶらりん。
追ってきた兵隊は王子に手をかけるのをためらい、
ヨアブに知らせに走りました。
「馬鹿な! お前がそこで彼を殺せば、銀10シケルと帯一筋をあたえたのに」
ヨアブはいまいましげに言いました。
「たとえ銀千シケルを受けてもだめです。王様も殺せとは言われませんでした。たとへ隠れてやってもわかってしまったら、あなたは私を庇ってはくれないでしょう」
ヨアブは兵士を無視して、三筋の投げやりをとると駆け出しました。アブサロムはまだ生きていて、ヨアブを見つけると、木から下ろしてくれるようにと、体を動かしました。
王子とゆうだけで、ちやほやされ、召使か何かのように顎で指図し、ヨアブの手を煩わしたアブサロム。
「わしは、軍の大将ヨアブだ。たとえ王子とはいえ、お前のようなひよっこに、そんな権利はないはずだ。いつかまた、ことを起こすと思っていたが、自分の父親を裏切るとは情けないではないか」
ヨアブはアブサロムの嘆願の声には耳も貸さず、無表情のまま、王子アブサロムの心臓目がけて矢を投げつけました。ヨアブの側近10人の若者も、頭上のアブサロムを取り巻いて撃ち殺しました。
ヨアブは腰に下げたラッパを鳴らした。
それはもう敵を追う必要はないという印であり、アブサロムが見つかったという合図でもありました。
ヨアブは本隊に戻る途中の森の中で、大きな穴を見つけると、無造作にアブサロムの遺体を投げ込みました。
そしてそこに、大小さまざまな石を積み上げて石塚を作りました。
これは叛乱者に対するやり方で、はなはだ乱暴な扱いでした。
「将軍、この吉報を王様に継げる役を私にお任せください。私は俊足です」
祭司の子アヒマアズはしゃしゃりでました。
「この知らせは王様にとってよい知らせとはいえまい。お前にはふさわしくない」
そう言ってヨアブは、そばに控えていたクシ人*2に伝令を託した。彼はすぐ走り去った。その後姿を見送りながら
「私は近道を知っていますから」と熱心にアヒマアズはヨアブに言いました。
ヨアブも彼の執拗さに負けてそれを許すと、彼は先に行った男よりも早く、ダビデの元に着きました。彼は得意になって言いました。
「神様が王様を祝福されました。反逆者は一網打尽です」
「アブシャロムはどうした」
ダビデは身を乗り出して言った。アヒマアズはアッと胸のうちで叫んだ。これだ、ヨアブが私を引き止めたのは。彼は一瞬息をつめたが、顔色一つ変えずに言った。
「私が来るとき、外で大きな声を聞きましたが、何なのかわかりませんでした」
ダビデは静かに眼を閉じた。まだ、大丈夫だ。息子は捕まってはいない。もし捕まってわしの前に現れたとしても、若気の至りだ。赦そう。あいつも反省するだろう。彼の統率力をもってすれば、この国も安泰だ。すでにわしは64歳だ。そうだ、そろそろ息子に代を譲る時期にきている。ダビデは胸の中で色々と思い巡らしていた。
そんなダビデの思いを打ち破るかのように、次の使者が来た。
「アブサロムはどうした」
ダビデは使者の顔を見るとせかすように叫んだ。
彼は目を上げて誇らしげに言った。
「あの方は、大将自らが手を下されました。これで王様のお命を狙うものはおりません」
「なんと、ヨアブがか・・」
ダビデはガタリとイスを倒した。涙が彼の頬を走った。
ダビデは急いで門の屋上に上がった。自分ひとりになると
「お前の変わりに私が死ねばよかった」
と言って声をあげて泣いた。
ヨアブたちが王の元に引き上げてきても、ダビデは彼らに会うこともせず、王子の死を嘆いていた。
集まった兵士たちも、勝利の喜びを口にすることもできず、重苦しい空気が全体を包んだ。
ヨアブは上を見上げながら「チッ」と舌打ちすると
王の部屋の戸を叩いた。
「王様、戦から帰った兵士を労ってください。彼らは今、敗戦兵士のようにうなだれています。あなたは私たちが全滅し
王子様が生き残ればよかったと思っておられるのでね。
よろしいのですか、人心は今夜中にもあなたから離れてゆきますよ。そんな最悪なシナリオは破いてください」
ヨアブの言葉にむっとしながらもダビデは立ち上がった。父親としてではなく、王としてすべきことに思い至ったからである。
しかしダビデはヨアブを赦す事ができなかった。