ハガイやゼカリヤの活躍によって神殿は再建され、時は流れた。

しかし、待ち望んでいた黄金の黄金時代は訪れず、人々の心はすっかり冷めきっていた。
「神は本当に私たちを愛しているのだろうか?」
そんな懐疑論が漂うエルサレムに、最後の預言者マラキ(「私の使者」の意)が立った。マラキ書は、愛を失った恋人同士の激しい口論のように、神と民とのスリリングな「問答」で幕を開ける。

神:「わたしはあなたがたを愛している。」
民:「どのように、あなたは私たちを愛されたというのですか?」
民の反抗的な態度は、神聖な神殿の丘で露骨に現れていた。祭司たちは、自分たちの牧場で売り物にならないような、目が見えない羊や、足の不自由な病気の動物を神への生け贄として捧げていたのだ。

マラキは彼らを一喝した。
「そんな不完全なものを、お前の総督に捧げてみよ。彼は喜んでお前を受け入れるだろうか! あなたがたは神の食卓を軽蔑している!」

神を軽んじる民の不誠実は、彼らの家庭をも崩壊させていた。 男たちは、若き日から苦楽を共にしてきた異邦人の妻を平気で裏切り、身勝手な離婚を繰り返していた。神殿の祭壇は、捨てられた妻たちの涙で濡れていた。
「わたしは離婚を嫌う。主はそう言われる。」
さらに、社会には不正が蔓延し、労働者は賃金を誤魔化され、未亡人や孤児、異国人は虐げられていた。それにもかかわらず、民はうそぶいた。 「悪を行う者も、神の目には良く見えるのだ。正義の神はどこにいる?」

神への不信仰(タテの糸)のほつれは、人間関係の崩壊(ヨコの糸)となって、社会全体をドロドロに腐らせていた。

富に対しても強欲になった民に向かって、神は驚くべき言葉を投げかける。
「人は神のものを盗むことができるだろうか。
しかし、あなたがたはわたしのものを盗んでいる。」
民:「どのようにして、私たちはあなたのものを盗んだというのですか?」
神:「10分の一の捧げ物と、奉納物においてである。」
すべては神から与えられたものなのに、民はそれを自分のものとして囲い込んでいた。財政的にも干からびていく民に、神は前代未聞の「挑戦状」を突きつける。
「10分の一をすべて、わたしの倉庫に持ってきなさい。それによって、わたしを試してみよ。 わたしが天の窓を開け、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうかを見てみるがよい。」

神を信頼して自らの手を広げるなら、大地は再び実り、諸国民から「祝福された者」と呼ばれるようになると神は約束された。

物語は、歴史の地平線の彼方を見つめる。
神を恐れ、その名を尊ぶ者たちのために、神の前で一つの「記憶の書」が書き記されていた。神を忘れた者がどれほど栄えているように見えても、最後の逆転劇が用意されている。
「見よ、炉のように燃える日が来る。その時、すべて高ぶる者、悪を行う者は、わらのようになる。」
しかし、暗闇が世界を覆うその日、神を畏れる人々の上には、まったく違う光が昇る。
「あなたがたには、正義の太陽が昇る。その翼には、癒やしがある。あなたがたは外に出て、牛舎から出た子牛のように跳ね回る。」

マラキ書の、そして旧約聖書全体のラストシーン。
神は一つの謎めいた約束を残す。
「見よ、主の大いなる恐るべき日が来る前に、わたしは預言者エリヤをあなたがたに遣わす。 彼は父の心を子供たちに向けさせ、子供たちの心をその父に向けさせる。」

もしこの和解がなされなければ、地は呪いで打たれる。だからこそ、神は愛をもって、もう一度チャンスを与えるために「使者」を送ると告げた。

この預言を最後に、神の声は途絶え、歴史は「400年間の沈黙(中間時代)」へと突入する。
人々は、激しい飢え渇きの中で、あの「正義の太陽」と、道を整える「エリヤ」の到来を待ち望み続けることになる。

そして400年後、新約聖書の幕開けとともに、荒れ野で叫ぶ一人の男(洗礼者ヨハネ)が現れたとき、このマラキの物語の続きが、ついに動き出すのである。(参:Gemini)














































