アヒヤの目はこのところ急速に衰えて、昼と夜の境さえおぼつかなくなっていた。そのぶん心眼は益々さえわたっていった。
ソロモン王はたくさんの異国の妻を召し抱えていた。その妻たちが自国の神々を持ち込んだため、国中に偶像があふれかえっていた。
シドン人の女神アシタロテ、
モアブの神ケモシ、
アモンの神ミルコムなどなど・・
神様はそれをお嫌いになられて、統一国家を二分することを赦されたのだ。そして抜擢されたのがヤラベアムだった。
あの日、アヒヤは神様のお言葉を彼に伝えた。
「わたしのしもべダビデがしたように、わたしの定めと戒めとを守るならば、わたしはあなたと共にいて、わたしがダビデのために建てたように、あなたのために堅固な家を建てて、イスラエルをあなたに与えよう」
ソロモン王亡き後、国はすぐ南北に分裂した。南のユダ王国初代王はレハベアム。ダビデ家の直系だ。かたや北王国はヤラベアム。ソロモンの家来だった。この騒ぎに腹を立てたレハベアム王は、ヤラベアム討伐隊18万人を招集したが、神の人シマヤに押しとどめられた。
ヤラベアムの聡明さが仇となったのか。10部族の民の心が自分から離れないようにと、「金の子牛」をダンとべテルに設置した。これは偶像ではないか。彼はまたエルサレムで行われていた「仮庵の祭り」を模した。祭司もレビ人ではなかった。
祭りの最中に、南ユダから無名の神の人が遣わされて来て、ヤラベアムの非道を指摘し、預言もした。*1
この後、老預言者の意味不明な行動で、南ユダからきた無名の神の人は亡くなってしまった。
それにしても、
北イスラエルの建国はスタートからして偶像礼拝だった。最悪だ!これで「罪と言えばヤラベアム。ヤラベアムと言えば罪」と聖書の中に記録されるようになってしまった。
アヒヤはテーブルの上に手を置き、指先をゆるゆると動かして、お茶の入ったコップを取り上げ口元に運んだ。
さて、そろそろヤラベアムの妻が身分を偽ってくるころだ。
少しかさついた唇をコップの淵に当てて、一口お茶を飲み干すと、尖ったのどぼとけがゆっくりと上下した。
アヒヤが慎重にテーブルの上にコップを置いたとき、ヤラベアムの妻が現れた。
「おお、神様。これで良かったのでしょうか」
アヒヤは体中のエネルギーを奪われたようにぐったりして、テーブルに顔を押し付けて、つぶやいた。さっきまで目の前にヤラベアムの妻がいて、病床の息子アビヤの事を伺おうと必死のまなざしでアヒヤに迫ってくるのが、ひりひりと肌に染みた。
「ヤラベアムの妻よ。語るべき言葉はすでに神より頂いている。厳しい言葉だ。帰ったら夫に言いなさい。あなたは約束を守っていない。偶像にまみれ戒めを破って、私の民を巻き込んでいる。ヤラベアム王朝は滅びる。
さあ帰りなさい。あなたの息子アビヤは、あなたが町の門をくぐる時、死ぬだろう」
驚愕の塊を飲み込むと絶望のまなざしが宙を舞った。ぼやけた視界の向こうから湿った空気が押し寄せてきて、部屋全体を包んで消えていった。
・・・・・・・・・・・・
アヒヤは深々と椅子に腰かけて、脱力した体を背に預け、手の甲をテーブルの上に乗せた。それからゆっくりと呼吸を整えていった。足の裏から頭のてっぺんへ突き抜けて行く微かな風の流れに身を任せた。唇がかすかに震えている。
「主よ‥・・おお・・」
アヒヤには見えるのだ。
彼女が町の門で躊躇している姿も、家の入口で泣き叫ぶ姿も。ヤラベアムが22年間玉座に座り、次男ナダブが王となることも。その二年後、バアシャの謀反によってナダブが倒れ、ヤラベアム王朝が崩壊することも‥‥
ダビデ王は遺言として息子ソロモンに残した言葉があった。
偉大なるダビデ王様のゆえに、南ユダ王国は北イスラエル王国よりも長らえるが、その末路がかすんでいる・・・アヒヤは頭を左右に振ってから、瞼をごしごしこすった。すると、かさかさと何かが音を立てだした。風だ。風が出てきた。アヒヤは心をとぎすませて、耳を傾けた。かすかにささやく声を求め、闇に輝く光を求めて…。
*1:ヨシヤ王がやってきてこの祭壇を壊す